|

ルーツ(なりたち)編
歴史深い伝統工芸『備前焼』の原点とは・・・?

5世紀ごろより、朝鮮伝来の高い技術による土器=須恵器が我が国の各地で生産されていた。須恵器はロクロで成形し、穴窯により高温で焼かれていたため硬く丈夫で、当時の土器(弥生式土器)に比べて利用価値が高く貢納品の上位におかれた。この須恵器こそが備前焼のルーツであるとされるが、当時は現在の伊部(岡山県備前市)ではなく南側の邑久郷で盛んに焼かれていた。
平安時代末期の政権の衰退にともなり、陶工たちは豊富な土や薪を求めて、当時霊峰として人々の信仰を集めていた、標高500mの熊山(岡山県熊山町)へと移った。この地で霊験を信じながら祭祀道具や瓦を焼いていたと見られ、熊山には当時の窯跡が多数残っている。さらに初期備前とされる擂り鉢や大甕は大胆でおおらかさあふれる造りとなっており、今日の備前焼の原点であることを思わせる。
貿易・流通の盛んな新しい時代が到来。鎌倉〜室町時代である。備前焼においては甕・壷・擂り鉢などの日用雑器が好調に売れ、陶工たちも次第に交通不便な熊山から里へと下りて現在の伊部の地へと築窯をはじめた。当時は生活雑器の擂り鉢が主流で「備前の擂り鉢投げても割れぬ」と唄われるほど優れたものであった。

室町中期8代将軍足利義政の世、奈良称名寺の僧侶村田珠光の提唱する『侘び茶』がはじまる。侘び・寂びの境地を尊ぶこの茶道に見立てとして起用されたのが備前焼の水指や建水であった。珠光は「茶陶では備前焼が最高」と高く評価した。

桃山時代、侘び茶を『草庵茶』」として完成したのが千利休である。利休は好みに合う茶陶を備前の陶工に注文して作らせ、華やかな茶会、茶席の名物として登場させた。また利休は時の将軍織田信長、豊臣秀吉にも仕えたことから、彼らもまた備前焼に興味を示し、愛用。窯元保護にも乗り出した。

同じく桃山時代に 西・南・北の三つの大窯にて共同制作されるようになる。巨大な大窯にたくさんの製品を詰めて1ヵ月ぐらいかかって焼き上げた。この時代いかに備前焼がもてはやされていたかがよくわかる。そして、窯元ごとの目印(窯印)をつけて作品を判別しはじめたのもこの頃からである。
次のページへ
|